村上春树-《村上さんのところ》

翻译|「《村上さんのところ》- 翻译弥补不了的领域存在吗?」

2016年11月26日

翻訳で補えない領域は存在するか?

翻译弥补不了的领域存在吗?

質問:

この前、とある遠い国で、とても気難しそうな顔をした人々が、とても堅そうな頭を抱えながら議論する、愉快な哲学学者たちの集会がありました。そこで、「村上春樹」の小説が、正午ちょっと過ぎたくらいの軽いコーヒーブレイクのように、突然(あまり会合の本題とは関係なく)引き合いに出されて、驚きました。

その文脈で、「村上春樹の小説には、日本語ができる人間にしか理解できないような部分、翻訳では補うことができないような物事の領域が存在するのだろうか?彼はあまりそのようなことを気にしていないように見えるけど。日本人としてどう思う?」と、とても高名な某Neko Yanagi教授に問いかれられ、大ピンチでした。

そこで僕は、緊張感を隠すために、めいっぱい無愛想なモアイ像のような顔を浮かべて、「この世の中に、全てが翻訳で補われてしまうような文学は存在しません。しかしその補いきれなさのロジックと強度は、翻訳した後にしかわからないものです。だからこそ、実はあなたたちなのですよ。」少しはぐらかしたような回答をしてしまいました。実際のどころ、村上さんならば、このような質問に、どのようにお答えになりますか?

前不久,在一个遥远的国度里,像摆着臭脸的人们,开展了给像顽石一般边抱头苦思边议论,愉快的哲学学者们的集会。在那里,「村上春树」的小说,在刚刚正午过去不久的轻咖啡休息时间里,突然(完全与集会的正题毫无关系的)被引以为例,吓了一跳。

那个来龙去脉是,我被一位非常著名的某Neko Yanagi教授问到,「村上春树的小说,只有懂日文的人才理解的部分,是否存在不能通过翻译弥补的事物的领域呢?不过他倒是看不出来会去注意那些东西。日本人是怎么想的呢」,超危险的。

那时候的我,为了隐藏自己的紧张感,最大限度地做出冷漠如埃及人像的表情,只能稍微岔开一下话题回答「在这个世界里面,能完全通过翻译弥补的文学是不存在的。不过,那个不能被弥补的逻辑和强度,只有在翻译之后才能知道。正因为如此,实际上是要看你们的。」那个真实的场景,如果是村上先生,面对这样的问题,会如何回答呢?

回答:

言語レベルでつきあわせていくと、オリジナルのテキストと翻訳されたものとあいだには、やはりある程度の落差は生じます。これはもう原理的に仕方ないことです。しかしその表層を一枚剥いだ物語レベルにおいては、ほとんどそのままの内容が伝達可能であるはずだと、僕は考えています。作家としても、翻訳者としても、そう考えています。つまり物語性が強い小説であればあるほど、それは翻訳によるに転換に耐える体質をそなえているということになると思います。物語というのはいわば、世界の共通言語としての機能を果たしているわけです。僕としてはそういう物語の本来的なパワーを信じたいと思っています。言語レベルにおいても翻訳者のぎりぎりの努力が必要とされることはいうまでもありませんが。

从语言水平的契合来看,在原始的文本和翻译后的文本之间,毫无疑问会产生一定程度的落差。那个已经是原理上没有办法的事情。只不过,我的思考是,剥开一片表层,在故事水平的层面上,大部分的内容有能按照原样传达的可能性。作家也好,翻译者也好,都是这样考虑的。总之,越是故事性强的小说越是这样,我想那是具备了能忍受根据翻译而来的转换的体质。故事可以说是,有着作为世界的共通语言的作用。作为我,是觉得要相信那是故事原本的力量。不过,不用说,在言语水平的层面上翻译者最大限度的努力是必要的。