本当につらいとき、闇に耐える強さ
真正难受的时候,忍耐黑暗的强大
質問:
こんばんは。
メールを一晩寝かせてから出してみることにします。
私は数年前に「約束された場所で」の村上さんと河合隼雄さんとの対談を読んで、人生観を代わるくらいの衝撃を受けました。今でもときどき考えが偏りそうになったら、読み返しています。
それから、河合隼雄さんの著書もたくさん読みましたが、「心の処方箋」の「灯を消す方が良く見えることがある」という章が特にすきです。
その中の「子供がつらいときに、方法を探し回るのではなく、子供ただそこにいることが大切。そうすれば暗闇から光が見えてくることがある」という言葉が、子育てする上において、私の指針となっています。
村上さんも「井戸の中に下りて行く」ということを言われていて、同じような意味なのかなと思います。
私はお二人の言葉にすごく共感するんですが、実際はつらいときや苦しいとき、方法を探してそこから逃げたくなるし、何もせずにただそこにいるというのはとても難しいです。
具体的な状況の変化(例えば離別や転落とか)がすごくこわくなってしまうんです(いつもそういうことがあるわけではないですが)。
でも、いろいろ年を重ね、逃げたり、探しまわることを繰り返すのは何か違うなと自分でも気づいています。
河合さんの言葉でいえば、不安にかられたときにうろうろする人ではなく、灯を消して、しばらくの間、闇に耐えられる人になりたいです。
どうすればそんな強さを持てるようになるんでしょか。村上さんのお考えをお聞きしたいです。
晚上好。
我让邮件放了一个晚上才把它发送出去的。
多年前我在《在约定的场所里》读了村上先生与河合隼雄先生的对谈,受到了更换人生观一般的冲击。即便现在若是偶尔有所偏离的时候,也会重读的。
自那以后,我读了河合隼雄先生的很多著作,尤其喜欢在《心的处方笺》里「把灯熄灭有更能看见的东西」这篇文章。
在里面有「孩子难受的时候,不是到处寻找方法,而只是陪伴在他的身边是很重要的。这样做的话就能从黑暗里看到光」这句话,在育儿上,成了我的指针。
村上先生也说过「下到井的里面」这句话,我觉得是同样的意思。
虽然我对两人的话语非常有共鸣,可实际难受或痛苦的时候,就会想寻找方法逃离那里,什么都不做而只是呆在那里是非常困难的。
具体状况的变化(譬如离别或者沦落)是非常让人害怕的(虽然不总是有这种事情)。
但是,多年来,自己也意识到反复逃离,到处寻找是不是错了。
若是用河合先生的话说,那就是在心里感到不安的时候不要做徘徊不定的人,而是成为把灯熄灭,暂时地,能忍耐黑暗的人。
要怎么做才能成为拥有那种强大的人。想听村上先生的想法。
回答:
何か本当にきついことを、つらいことを体験したときには、あまり直接的な、即刻的な解決策をも求めない方がいいのではないかと、僕も考えています。少なくともしばらくのあいだは、誰かに相談したりもしない方がいいだろうと。それよりはその「きつさ」をじっと抱えていた方がいいのではないかと。それを一人でしっかり抱えているうちに、何かしら自然に見えてくるものがあるのではないかという気がします。それがおそらくは、河合先生の言う「灯を消す方が良く見えることがある」ということのではないでしょうか。
あまりに早く解決策を見つけてしまうと(あるいは見つけたと思ってしまうと)、人にとって大事な「心の年輪」みたいなのが、そこでうまくつくられないままに終わってしまいます。「今は年輪をつくっているところなんだ」と思って、じっと我慢することが大事です。僕が「井戸の底に降りていく」というのも、たしかに同じような趣旨のことなのかもしれません。
真正厉害的事情,体验到难受的时候,不要去寻求直接的,即刻的解决方法比较好,我是这样认为的。至少暂时,也不要跟任何人相谈。比起这个,拥抱这个「难受」会不会更好呢。在一个人紧紧地拥抱的过程中,感觉会自然地出现能看见的东西。那个或许就是,河合先生说的「把灯熄灭有更能看见的东西」。
如果找到迅速解决的办法(或者说想找到),对人来说类似重要的「心の年轮」,就不能被很好地被制造出来而就此终结。想着「现在是制造年轮的时候」,如如不动地忍耐是非常重要的。我说的「下到井的底部」,确实有同样的意思。