大人になるって、どういうことだろう?
成为大人,是怎么一回事呢?
質問:
私はあと2年もしたら父親が死んだ歳と同じことなります。いろいろと血縁関係に関しては面倒くさいがあったのですが、10代20代の私ではわからなかったことが、今はなんとなくわかるようになってきました。
結局のところ人というのは、外見は歳を取っても中身は10代20代の頃と同じままなんだろうなぁと思っています。40歳になった私自身がそうなので。人によって内面の時間の流れ方が違うというか。当時、10年以上ぶりに見た(その頃の私は18歳)棺桶の中にいた父親の顔はとても若いという印象でした。たぶん、父親の内面は10代のことのままだったじゃないかと、40歳になった私は考えています。若い自分(内面)を持ったまま、40代50代の自分を生きていくための、次の物語をうまく描くことが父にできなかったのではないかと。そう考えてみると、わりと今の私としてほしっくりくら感じです。ま、あくまでも想像の域ですが。
10代20代の頃の私は人生晚秋という感じで、毎日心が重く、ため息ばかりついていました。「さっさと人生が終わればいいのに」くらいに思っていたのに、今は「楽しく生きてみよう」という方向に心がシフトしました。心が広がる方向に自分がどこまでいけるか。自分を一歩引いて見てみると、その心の変化がおもしろいし、私は自分の次の物語を描いてみたいと思っています。
で、ここで60代になった村上さんに質問なのですが、以前このサイトで「28歳なんてだいたいまだ大人じゃないですよ。始まったばかりんなんだから」とか「あなたはまだ48歳でしょう。僕から見れば青年みたいなものです」とか、おっしゃっていましたが、ではこの世界に、大人っていると思いますか?(村上さんは、確か自転車の名前が、「永遠の18歳(号)」だったように思う)」
私は60歳70歳80歳。。。になっても、大人になった人って、どこにもいないだろうと予想しています。
还有2年我就会与过世的父亲一样的年纪了。虽然有很多与血缘关系相关的麻烦事,但是10代20代的我不理解的事情,现在不知如何反倒有点懂了。
我想或许归根结底人即便外表会上年纪内心也还是与10代20代的时候一样。因为满40岁的我就是这样的。不同的人内心的时间的流动方式也是不一样的。
当时,印象中时隔10年以上(那个时候我是18岁)见到的躺在棺材里面的父亲的容颜是非常年轻的。大概,父亲的内心还是10代的样子吧,上了40岁的我这样想着。父亲不能再怀着年轻的自己(内心),为了40代50代的自己活下去,而很好地描绘下一个故事。这样一想的话,意外地现在的我却觉得轻松。不过说到底是在想象的区域。
我感到10代20代时的自己是人生的晚秋,每天内心沉重,总是唉声叹气。甚至于想「迅速地结束人生就好了」,现在却向着「快乐地去生活吧」这样的方向转换心态。自己向着心扩展的方向能走到哪里呢。尝试退一步看自己后,内心的变化是有趣的,我想去描写自己的下一个故事。
在这里向满60岁的村上先生提问,您以前在这个网站里说过,「28岁大概还不是大人哦,因为才刚刚开始」,还有「你还只是48岁吧,在我看来就像青年」之类的话,那么在这个世界里,有大人存在吗?(我觉得村上先生的自行车的名字大概是「永远的18岁(号)」)」
我即便到了60岁70岁80岁……成为大人什么的,预想无论在哪里都不存在吧。
回答:
僕は10代でドストエフスキーに溺れていた頃、ドストエフスキーってすごいじいさんだと思っていました。顔つきもかなり老人っぽいし。でもこのあいだ調べてみたら、死んだときはまだ59歳だったんですね。それで自分がドストエフスキーよりもずっとじいさんになっていることを知って、愕然としてしまいました。それから、フィッツジェラルドが死んだのが44歳だったと思います。レイモンド・カーが亡くなったのが50歳。
僕はそういう作家たちの死んだ歳を、自分にとっての里程標みたいに思って生きてきました。
「まだまだがんばらなくっちゃ」と思って。でもドストエフスキーを超えちゃうと、なんだかずいぶん感慨深いものがあります。あともう里程標がないじゃないか、みたいな。
でもこの年齢になって思うのは、人間って斑にできているものなんだな、ということです。
僕の中にはまだ子供っぽい部分がたくさんあるし、それなりに老成した部分ももちろんあります。昔に比べると人間が少しまるくなったような気がするけど、同時に以前よりも研ぎ澄まされてきたところもあります。そういういろんな相反するものが、僕の中に斑に混在している。
そういう意味では、あなたがいうように「人が大人になる」なんてあり得ないことなのかもしれません。そこにはきちんとした統一性がないわけだから、やはり迷いはあります。
けっきょく大人になるというのは、あくまで相対的なものだと思うんです。「比較的大人になる」ということですね。
ああ、十年前にくらべたら、比較的大人になったかなと。それだってあくまで感覚的なものに過ぎませんが。
僕はたとえば十年前に書いたものを読み返してみて、そう感じることがあります。ああ、あの頃はまだ若かったんだな。いまならこうは書かないかもな、とか。大人になるとはどういうことか、一言でいえばいろんなことをあきらめていくことだと思います。良い意味でも、悪い意味でも。うまくあきらめられる人は、うまく大人になれるということじゃないかな。
我在10代沉迷于陀思妥耶夫斯基的时候,觉得陀思妥耶夫斯基是非常厉害的爷爷。样子也非常像老人。但是最近试着查了一下,发现他死的时候还只是59岁呢。然后知道自己远比陀思妥耶夫斯基更是一个老人后,愕然不已。还有菲茨杰拉德死的时候是44岁。瑞蒙·卡佛去世的时候是50岁。
我一直是以这些作家去世的年纪作为我自己的里程碑活着的。
想着「还必须努力啊」。但是超过了陀思妥耶夫斯基,不知怎的有非常深的感慨。就像,以后不会再有里程碑了吧。
但是到了这个年龄感觉,人就是会长斑的东西,这么一回事。
我的内心还有很多像小孩的部分,相应的也有很多老成的部分。虽然感觉相比以前人变圆滑了,但同时也有比起以前更加敏锐的地方。这些各种相反的东西,在我的内心作为斑点混在一起。
从这层意义上,如你所说的「成为大人」什么的可能是没有办法的事情。因为那里并没有规整的统一性,还是有迷惑。
我想最终成为大人,说到底是相对的东西。是「比较地成为大人」。
啊,如果与十年前相比,比较地成为大人。那个说到底只是感觉上的东西。
譬如我重新读十年前写的东西,就会有这种感觉。啊,那时候还年轻呢。如果是现在估计是不会那样写的,之类的。成为大人这件事,用一句话来说就是要放弃很多东西。无论是好的意义,还是坏的意义。懂得放弃的人,也就能懂得成为大人。