看一篇评论文章说到,太宰治把《斜陽》起名为《斜陽》,有可能是参考了契诃夫的《樱桃园》,因为这是太宰治本人非常喜爱读的戏剧,而在《樱桃园》的第三幕的末尾,安尼雅跟她的母亲说了下面这段话,里面有提到“一种平静、深沉的喜悦……就像夕阳斜照着黄昏一样”。评论者以为太宰治也想用“夕阳(斜陽)”来意指这种喜悦,而且夕阳斜照不一定是灰暗的,它也有明亮的一面。明暗交错,逝去与新生是这部小说的一个基调。
不过,我没想着继续说《斜陽》,只是当时看这篇文章的时候,看到文章里引用了《樱桃园》这段日文,读着觉得挺好的,就好奇地买了契诃夫的戏剧看。在这之前,我几乎没怎么读过戏剧作品,所以当我读这部《樱桃园》时,竟然觉得挺欢乐的。可能因为它本身就是一部喜剧吧,但还是难以想象,这是契诃夫在病重的那些年慢慢写成的戏剧作品。里面的人各个都这么鲜活,说出来的话仿佛都自带节奏跳动一般具有生命力。太神奇了。
「わたし、お祝いお言いたいの。桜の園は売られました、もうなくなってしまいました。それは本当よ、本当よ。でも泣かないでね、ママ、あなたには、まだ先の生活があるわ。そのやさしい、清らかな心もあるわ……さ、一緒に行きましょう、出て行きましょうよ、ねえ、ママ、ここから!……わたしたち、新しい庭を作りましょう、これよりずっと立派なのをね。それをご覧になったら、ああそうかと、おわかりになるわ。そして悦びがーー静かな、ふかい悦びが、まるで夕方の太陽のように、あなたの胸に射しこんできて、きっとニッコリお笑いになるわ、ママ!行きましょう、ね、大事なママ!行きましょうよ!……」(神西清訳)
「我祝福你!樱桃园卖出去了,它已经不是我们的了,不错,这确实是真的;但是,用不着哭啊,妈妈,你的前面还有一大段没有走完的生命呢,你自己还有纯洁而可爱的灵魂呢……跟我走吧,我的亲爱的;跟我走,咱们离开这儿……咱们另外再去种一座新的花园,种得比这一座还美丽。你会看得见它的,你会感觉到它有多么美的,而一种平静、深沉的喜悦,也会降临在你的心灵上的,就像夕阳斜照着黄昏一样。到了那个时候,你会微笑的,我的好妈妈!咱们走吧,我的亲爱的,跟我走吧!走吧!……」(焦菊隐译)
这段话越读越有味道。日文和中文读起来的感觉是不一样的。总觉得在抒情上,日文会给人一种悠远又婉转的萦绕般的意境,日文本身那种粘稠感,读着就能想象到被说出来的时候是什么感觉,奇妙般能让人置身其中。那种轻柔,纤细的质感在默读的时候就会流露出来了。我想这一幕戏要放在台上演,一定会很让人动容的。
阅读日文经常会收获到一些新鲜的体验,偶尔的一些小发现也会有趣无比。
比方说,在日文里,一个字是可以成为一句话的,尤其在表达春夏秋冬或者天气的时候。当一个人看着窗外的风景,心生喜悦,想说点什么但又不知道如何描述时,可以直接说——春だ。冬だ。雪だ。雨だ。当这种表达写成文字时,就莫名地让人感受到一种诗意,像是无数的情感都尽在不言中了,像是看到「春だ。」,「冬だ。」和「雪だ。」的人都能自动联想到相应的画面。这种表述最好是在放在一篇文章的末尾,丝毫不费力气地就让感情升华了。
「近くの美術館には小さな藤棚があって、その花の下にしばらく座るのは五月のならわしになっていう。むらさきの花房に顔を近づけるとふくよかな甘い香りがただよう。藤には美しい女の精霊がいるといつも思う。「藤の花房 いろよく長く 可愛がろとて酒買うてのませたら うちの男松に からんでしめて てもさても。」「藤娘」の手踊りをうたいながら喫茶店にむかって、コーヒーを注文する。春だ。」
(「おかしくなる季節」 / 朝吹真理子)
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像日文里表达“也是/一样的”的「も」也是一个独特的东西。在中文里,如果连续表达两个以上的“也是”,若处理不好,就会变成累赘,而且,还不能一直用“也是”来描述,要变换成别的词,不然就显得乏味。然而,在日文里,只需要用「も」,就可以向上叠加好几个“也是”,而它呈现出来的效果也会变得更具感染力,更具压迫感,让人心头为之一颤。譬如——
「茶箪笥も、柱時計も、母親も、兄も、古い煤けたかまども、海のどよめきも。……広はそういうものに包まれてぐっすり眠った。」
「潮騒」/ 三島由紀夫
我好久以前翻译过最果タヒ的「旬の桃」,诗的最后几句正好体现了「も」的用法。
フォークで、桃のなかを横断する。
光のせいだ、全てが何かの始まりみたい、輝いている。
汚れた食器も洋服も、種無しの桃も。
死んだように眠っていた、私の体も。
「も」也可以放在中间不隔开。
「そしてニュートンが思い至ったのは,リンゴも月も地球も太陽もあなたもわたしも布団も石炭も,万物が互いに目に見えない力で引き合うという,すなわち万有引力の法則でした。」
真是一个便利又好用的「も」。看着被「も」串起来的一堆东西,如同看着一串葡萄一样,总是有趣得很。
表达并列关系的「と」的用法与「も」类似。
「あれは「未知」であった。未知を遠くに見ていたあいだ、彼の心には平和があったが、一度未知に乗組んで出帆すると、不安と絶望と混乱と悲歎とが、相携えて押し寄せて来たのである。」
「潮騒」/ 三島由紀夫
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我那天看一个视频讲东京腔和京都腔的区别,然后里面引用的一个例子,实在是好笑得很。ちゃうちゃう在日文里是松狮犬的名字,而ちゃう在京都腔里是じゃない(不是的意思),于是就有了下面的对话——在京都腔里,只需要用ちゃう就完成了整段对话。
あれ、ちゃうちゃうちゃう?(あれ、ちゃうちゃうじゃない?)
诶,那是松狮犬吗?
ん〜、ちゃうちゃうちゃうんちゃう?(ん〜、ちゃうちゃうじゃないんじゃない?)
呃~,不是松狮犬吧?
ちゃうちゃうちゃうん?(え?ちゃうちゃうじゃないの?)
诶,不是松狮犬吗?
ちゃうちゃう、ちゃうちゃうちゃう!(違う違う!ちゃうちゃうじゃないよ!)
不是不是,不是松狮犬啦!
等想到或碰到什么有趣的,再多写写吧。