说到“浪漫”这个词,会联想到什么呢。如果是与爱情有关的浪漫,又会联想到什么呢。
我没什么武侠情怀,所以舞刀弄枪,侠气道义这些在我这里称不上浪漫;当关系到达一个可以摧毁人的极端的点时,这种关系已然脱离了爱和恋的层面,所以想要置人于死地的夺命见血般的东西,肯定也与浪漫不合;生离死别又过于沉痛,多少有别于浪漫二字,除非事情恰如电影《情书》里面所演的一样,有小樽的冬天和雪景作为衬托,一切又那么恰如其分地浪漫……
浪漫是一个有期限的泡泡。在泡泡破裂之前,泡泡的内里弥漫着浓浓的甜蜜气息。它属于外界,但又与外界分离。只有存在于泡泡里面的人才能享用到这份有期限性的甜蜜,他们以高度的姿态傲视平凡之物,他们变身为赞颂美好的人。一种温和又沁人心脾的浪漫情怀充溢其中,如空气。他们会说——我没有非要为了浪漫做点什么,但恰恰我所做的一切都是浪漫的注脚。
和子(かず子)在《斜陽》里面说——人間は恋と革命のために生まれて来たのだ(人是为了恋爱和革命而生的)。这是她浪漫的誓言。大概,读过这本书的人,都会为这句话而心迷醉倒吧。
《斜陽》的诞生背景有一位女性的存在,太田静子。当时写这部小说的时候,太宰治参考了许多这位太田静子写的日记。小说里出现的许多人物和情景,也多与她的经历相似。可以说,是这些日记触动了太宰治,再有当时的社会环境使然,触发他写下这部小说。太宰治曾跟太田静子表达过自己的写作初衷——最も美しい記念の小説を書くつもりです(打算把它写成最美的纪念小说)。
这是一部以女性视角写的小说,情感的表达极为细腻,可以想象作者真的把自己化身为这些日记的主人,经由他的笔,过往都被酝酿出新的文字生命。许多语句,就像诗一般美;许多景,又像画一样引人注目。它的浪漫正正体现在这些地方。不一定是故事里的人物最后如何了,而是身为读者的阅读体验,无论是人的何种情感,它的语言都给人一种美而悲壮的氛围。哪怕读者知道他们如何痴迷或不切实际,知道他们如何随性又不省心,知道他们如何惹人笑惹人怜,都依然抵挡不住读者对他们的喜爱。作者让他们用文字成就一种壮烈,一种使命,而身为读者的我,就一次又一次地体会到文字的极致浪漫。
小说里,除了体现和子的爱恋以外,还尤为真实地描写了和子和母亲,以及和子的弟弟直治的关系。它透过和子的描述隐隐地透露出这三个人之间的关系。无疑,母亲对直治是偏爱的,在直治还没有回来以前,母亲能够依赖的人仅有和子,孤独的和子也无比地想与母亲亲近;然而,当直治回来以后,她就明显地感觉到自己过去不过是被母亲“利用”了。哪怕直治不在身旁照料,他说的话母亲会照做,他的关心抵得上和子的一切。
何だか自分の胸の奥に、お母さまのお命ちぢめる気味わるい小蛇が一匹入り込んでいるようで、いやでいやで仕様で無かった。
お母さまのお顔は、さっきのあの悲しい蛇に、どこか似ていらっしゃる、と思った。そうして私の胸の中に住む蝮みたいにごろごろして醜い蛇が、この悲しみが深くて美しい美しい母蛇を、いつか、食い殺してしまうのではなかろうかと、なぜだか、なぜだか、そんな気がした。
お母さまさえ、私を可愛がって下さったら、私は一生お母さまのお傍にいようとばかり考えいたのに、お母さまは、私よりも直治のほうが可愛いのね。
直治の言う事なら、なんでも信じて従おうと思っていらっしゃるらしい。
幸福感というものは、悲哀の川の底に沈んで、幽かな光っている砂金のようなものではなかろうか。悲しみの限りを通り過ぎて、不思議な薄明かりの気持ち、あれが幸福感というものならば、陛下も、お母さまも、それから私も、たしかにいま、幸福なのである。
然而,即便备受宠爱,母亲的爱对直治而言不过是另一重的负担。其实,无论是直治还是和子,都默默地把母亲的存在当成一种需要逃脱的存在。于和子而言,母亲是她心口那一条无时无刻都在成长的丑陋之蛇,终有一天要把象征着母亲的美丽无比的母蛇吞噬掉;于直治而言,母亲是他贵族血液的另一种呈现,一种藩篱,一种他无法回应的爱。母亲去世以后,和子毅然离开了家,去寻找自己的恋人,去实现自己的革命;而直治则是直面自己的困境。他在遗书里提到自己的离开只能在母亲的离开以后。如此说来,他们两人都唯有通过了母亲才能找到自我的所在,才能真正地为自己的人生作出选择。
いつまでも、悲しみに沈んでもおられなかった。私には、是非とも、戦い取らなければならぬものがあった。新しい論理。いいえ、そう言っても偽善めく。恋。それだけだ。
僕は、もっと早く死ぬべきだ。しかし、たった一つ、ママの愛情。それを思うと、死ねなかった。人間は、自由に生きる権利を持っていると同様に、いつでも勝手に死ねる権利も持っているのだけれど、しかし、「母」の生きている間は、その死の権利は留保されなければならないと僕は考えているんです。
这部小说的内容丰富又具有力量,或许,和子的恋人,上原先生有太宰治的影子,而直治的夕颜日记和他的遗书也有太宰治的影子。所以,无论是从女性的角度阅读,还是从作者的角度阅读,都能给予自己不同的震撼。
可以毫无负担地只为沉醉在美的语言里阅读,倘若读完若有所思若有所想,也无不妥。
接连读了太宰治的其他作品,若现在让我列一个顺序以便能好好认识作者的话,我会选择下面的顺序(仅限于我读过的)。
- 《晚年》- 《思い出》:这篇写的是小时候的事情,读完大概能勾勒出一个地主家少爷的生活模样;
- 《晚年》- 《道化の華》:这篇以一次自杀未遂的事件为题材而写的。
- 《东京八景》:作者描述自己在东京的10年生活并选出自己心中的东京的最美的景色。
- 《津軽》:跟随作者的脚步去探访他的故乡。
- 《ヴェヨンの妻》、《桜桃》:这两篇都是以家庭生活为题材的。身为三个孩子的父亲的太宰治,面对家庭的时候,大概也是矛盾非常的吧。他爱妻子和孩子,但实际上他又有许多无能为力的时候,就连足够多的陪伴可能都谈不上。所以到了压力无可释放的时候,他也会选择逃避。细细读来,会发现,这两篇文章,都提到长男的发育是有障碍的,这在当时对夫妻而言都是一个重担吧。(事实上,太宰治的长男正树也确实有唐氏综合征,15岁的时候因为肺炎去世了。)
- 《斜陽》
- 《人間失格》
另外,不妨读一下《别册太阳》的这本「太宰治」,我认为它的记录和分析都非常详尽和真实。
在《别册太阳》里刊载了一位女演员的文章。这位演员谈起自己与太宰治的结缘,是因为当时她被邀请出演《维荣之妻》里面的一个角色,因此而读了太宰治的书。但事实上,这位女演员的爸爸在年轻的时候也是一位文学青年,曾买过《斜阳》的首版书籍并一直保存至今。在女演员上大学那一年,爸爸把这本《斜阳》送给她,并且附上留言,说爸爸会定时在月末给她转账8万日元,若到了下个月还没有收到的话,那么可以假设爸爸要么身体不适病倒了,要么去了很远的地方还没回来,这时她就可以拿着这本首版《斜阳》去二手书店典当,典当的钱大概能撑好一阵子。女演员因为不了解《斜阳》,所以没把这件事放在心上,而书也只是放在书架的角落封尘。后来,有朋友告诉她,这本首版《斜阳》估计能值百万日元,这时她才醒觉过来。现在,这本书被她放在银行的保险柜里。
摘录——
关于战争:
私は、戦争の追憶は語るのも、聞くのも、いやだ。人がたくさん死んだのに、それでも陳腐で退屈だ。
戦争の事は、語るのも聞くのもいや、などと言いながら、つい自分の「貴重なる体験談」など語ってしまったが、しかし、私の戦争の追憶の中で、少しでも語りたいと思うのは、ざっとこれくらいの事で、あとはもう、いつかのあの詩のように、
昨年は、何も無かった。
一昨年は、何も無かった。
その前のとしも、何も無かった。
关于破坏:
人間というものは、ケチなもので、そうして、永遠にケチなものだという前提が無いと全く成り立たない学問で、ケチでない人にとっては、分配の問題でも何でも、まるで興味の無い事だ。
破壊思想。破壊は、哀れで悲しくて、そうして美しいものだ。破壊して、建て直して、完成しようという夢。そうして、いったん破壊すれば、永遠に完成の日が来ないかも知れぬのに、それでも、したう恋ゆえに、破壊しなければならぬのだ。革命を起さなければならぬのだ。
关于革命:
革命は、いったい、どこで行われているのでしょう。すくなくとも、私たちの身のまわりにおいては、古い道徳はやっぱりそのまま、みじんも変わらず、私たちの行く手をさえぎっています。海の表面の波は何やら騒いでいても、その底の海水は、革命どころか、みじろぎもぜず、狸寝入りで寝そべっているんですもの。
けれども私たちは、古い道徳とどこまでも争い、太陽のように生きるつもりです。
どうか、あなたも、あなたの闘いをたたかい続けてくださいまし。
革命は、ちっとも、何も、行われていないです。もっと、もっと、いくつもの惜しい貴い犠牲が必要のようでございます。
いまの世の中で、一ばん美しいのは犠牲者です。