文 | 「来自《细雪》的京都赏樱路线」

2020年2月8日

谷崎润一郎在《细雪》的第十九章借用幸子的话给出了一条在京都赏樱的极佳路线。这一章节也以极为浓厚的笔触写出了幸子个人的格调和品味。

比方,当幸子的丈夫贞之助在他们新婚旅行时问起幸子,最喜欢什么鱼时,幸子说最喜欢“鲷”,贞之助笑话说“鲷”太普通了,然而幸子却有下面一番想法。在她心中日本的鲷是最美味的。同样,如果问她最喜欢什么花,她也会毫不犹豫地说是樱花。

「彼女の説に依ると、形から云っても、味から云っても、鯛こそは最も日本的なる魚であり、鯛を好かない日本人は日本人らしくないのであった。彼女のそう云う心の中には、自分の生まれた上方こそは、日本で鯛の最も美味な地方、ーー従って、日本の中でも日本的な地方であると云う誇りが潜んでいるのであったが、同様に彼女は、花では何が一番好きかと問われれば、躊躇なく桜と答えるのであった。」

当说到去哪里赏樱时,幸子的想法是,鲷若不是明石鲷就不够美味,花若不是京都的花就不足以让人提起兴致。

鯛でも明石鯛でなければ旨がらない幸子は、花も京都の花でなければ見たような気がしないのであった。

书中写到他们到京都赏樱的计划,一般是到京都来个两日一夜或三日两夜的短暂停留,如此好好地漫步到各处地方赏樱。

「常例としては、土曜日の午後から出かけて、南禅寺の瓢亭で早めに夜食をしたため、これも毎年欠かしたことのない都踊を見物してから帰りに祇園の夜桜を見、その晩は、麸屋町の旅館に泊って、明くる日嵯峨から嵐山へ行き、中の島の掛茶屋あたりで持ってきた弁当の折を開き、午後には市中に戻ってきて、平安神宮の神苑の花を見る。そして、その時の都合で、悦子と二人の妹たちだけ先に帰って、貞之助と幸子はもう一と晩泊るともあったが、行事はその日でおしまいになる。彼女たちがいつも平安神宮行きを最後の日に残して置くのは、この神苑の花が洛中に於ける最も美しい、最も見事な花であるからで、円山公園の枝垂桜が既に年老い、年々に色褪せていく今日では、もことに此処の花を措いて京洛の春を代表するものはないと云ってよい。されば、彼女たちは、毎年二日目の午後、嵯峨方面から戻って来て、まさに春の日の暮れかかろうとする、最も名残の惜しまれる黄昏の一時を選んで、半日の行楽にやや草臥れた足を曳きずりながら、この神苑の花の下をさまよう。そして、池の汀、橋の袂、路の曲り角、廻廊の軒先、等にある殆ど一つ一つの桜樹の前に立ち止まって嘆息し、限りなき愛着の情を遣るのであるが、蘆屋の家に帰ってからも、又あくる年の春が来るまで、その一年じゅう、いつでも眼をつぶればそれらの木々の花の色、枝の姿を、眼瞼の裡に描き得るのであった。」

路线是,星期六的午后出发,先在纸园花见小路的歌舞练场,欣赏完艺妓·舞妓的舞踊后观赏纸园的夜樱,当晚于南禅寺的瓢亭吃晚饭,夜宿麸屋町的旅馆。周日上午从嵯峨出发去岚山,午后回到市区,再去平安神宫的神苑赏樱。

「あの、神門を這入って大極殿を正面に見、西の廻廊から神苑に第一歩を踏み入れた所にある数株の紅枝垂、ーー海外にまでその美を謳われているといる名木の桜が、今年はどんな風であろうか、もう遅くはないであろうかと気を揉みながら、毎年廻廊の門をくぐる迄はあやしく胸をときめかすのであるが、今年も同じような思いで門をくぐった彼女達は、忽ち夕空にひろがって紅の雲を仰ぎ見ると皆が一様に、

「あー」

と、感嘆の声を放った。この一瞬こそ、二日間の行事の頂点であり、この一瞬の喜びこそ、去年の春が暮れて以来一年に亘って待ちつづけていたものなのである。彼女たちは、ああ、これでよかった、これで今年もこの花の満開に行き合わせたと思って、何がなしにほっとすると同時に、来年の春も亦この花を見られますように願うのであるが、幸子一人は、来年自分が再びこの花の下に立つ頃には、恐らく雪子はもう嫁に行っているのではあるまいか、花の盛りは廻って来るけれども、雪子の盛りは今年が最後ではあるまいかと思い、自分としては寂しいけれども、雪子のためにはどうぞそうであってくれますように願う。」


京都·平安神宫(图自网络)

平安神宫里面分为,南·西·中·东四个部分。进去以后直接看到的红色垂樱再向南走就是南神苑,这里种植着出现在《源氏物语》的两百种以上的植物。接着,以白虎池为中心的是西神苑。接着在苍龙池里的踏石上架有卧龙桥的是中神苑。最后在栖凤池里架有楼阁的桥就是东神苑。

幸子在少女时代也无法理解为什么古人心心念念着等待花开,对花落又极为爱惜,无休止地反反复复咏诵樱花,然而,当她年长以后,她也开始明白过来了。古人对花开花落的怜惜和爱慕绝非只是文字上的风雅,而是沁入心脾的情感。

「ーー少女の時分にはそれらの歌を、何と云う月並なと思いながら無感動に読み過ごして来た彼女であるが、年を取るにつれて、昔の人の花を待ち、花をオシムが、決してただの言葉の上の「風流がり」ではないことが、我が身に沁みて分かるようになった。」

正如在这里提到的「彼女たちは、ああ、これでよかった、これで今年もこの花の満開に行き合わせたと思って、何がなしにほっとすると同時に、来年の春も亦この花を見られますように願うのであるが」,她们一边为今年也赶上樱花满开而放心,一边也祈愿明年仍能看到樱花满开。这便是赏樱(お花見)的意义吧。

是啊,赏樱,不只是文字上的风雅之事,也不是看过无痕的无感认同,而是把确认的心情,带着感谢的心情,带着祈愿的心情,带着自己真真切切地活着的心情,一一寄予在樱花的来来去去上。要说这是一种仪式,那也是至上欢喜的仪式。

对生活的认真,定是建立在对周遭事物的真实感知的基础上的。

通过感受自然而感受到自身的存在,何乐而不作为呢~