「1Q84」は最初から日本語でよみました
从一开始就用日文读「1Q84」
質問:
2010年から日本に住んでいるアメリカ人です。村上さんの読者の「小説家志望者率」は非常に高いように感じるのですが、どう思われますか?
実は自分もその一人で、ちょうど今、4年間かかって書き上げた10代向けの小説はアメリカの大手の出版社の方の手に渡っております。実際に出版まで行けるかどうかはまた別の話ですが、取り敢えずそわそわしながら必死に他のことを考えようとしています。
さて、村上さんに聞きたいことはもう一つあります。
小説はどの段階で、(だいたい)どれくらい書き直しますか?例えば最後まで書いてから始まりに戻ってそこから地道に書き直していく、とか。
村上さんの創作プロセスは小説ごとに大きく変わりますか?それとも同じパターンに落ち着いてくる感じでしょうか?
最後に、村上さんの本を日本語で読みたかったから日本語を勉強した、と言っても過言ではありません。高校の時代に英訳さえた書籍を一通り読んで、大学生として京都に留学していた時期に「1Q84」が出版されました。最初から日本語で読んだのは「1Q84」が初めてだったので、自分にとって「1Q84」は特別な存在です。でも「1Q84」を特に大切に思っている理由はそれだけではありません。
男性と女性が永遠に分かり合えない、という声を聞くとちょっと落ち込んでしまいます。(女が何を考えているのか死ぬまで理解できない、とか、女の考えていることを分かろうとしても無駄だ、とか)確かに男性と女性は違いますが、人と人を隔てている要素はいくらでもあるし、性別の違いでお互いが理解できないというよりは、個人と個人の性格とか、育ちと価値観と欲求などの違いとかがいっぱいあって、性別の差だけに注目しすぎても仕方がない、と勝手に思ったりします。
女性の視点から何も書かない小説家(特に偉い方、過去の天才たち)は結構いらっしゃいますが、「1Q84」の青豆は「主人公」(の一人)ですし、半分くらい青豆の視点から書かれています。
それになぜかすごく救われた気分になりました。本当にありがとうございます。
我是从2010年就在日本居住的美国人。感觉村上先生的读者的「小説家志愿者率」非常高,您是怎么认为的?
实际上我也是其中一人,就在刚刚,我把用了4年时间写成的面向10代的小说交给了美国的大出版社。虽然实际上能不能出版还是另说,不过暂且一边坐立不安一边拼命地去思考其他事情。
那么,我想询问村上先生一个问题。
小说要在哪个阶段,(大体上)哪种程度重写呢?譬如说是先写到最后然后再从头开始踏实地重写。村上先生每本小说的创作过程都有很大的变化吗?还是说同样的类型会感到安心?
最后,说我是为了想用日文读村上先生的书而学习日语也不为过。在高中的时候粗略地读过英译版的书籍,然后作为大学生在京都留学期间「1Q84」出版了。因为最开始是第一次用日文读「1Q84」,所以对自己来说「1Q84」是特别的存在。但是我认为「1Q84」非常重要不仅仅只有这个原因。
男性与女性永远不能心灵相通,听到这种声音时会有点失落。(至死为止都不能理解女性在想什么,或者要想去理解女性思考的东西也是没用的)确实男性与女性是不一样的,有好些因素把人与人分隔开,比起因为性格差异而彼此无法理解,个人与个人的性格,成长历程与价值观与欲求等等的差异还是相当多的,但即便过于注意性别的差异也没用,我是这么随性认为的。
无法从女性的观点出发写任何东西的作家(特别伟大的,过去的天才们)还是相当多的,不过「1Q84」的青豆「主人公」(的一人),有一半是从青豆的观点出发写的。
正因为此而感到满满的被拯救的心情。非常感谢。
回答:
こんにちは。しかし素晴らしい日本語をお書きになりますね。こんなことを言ってはカドが立ちそうですが、ここにメールを送られてくる(日本人の書いた)メールの大半よりずっと読みやすく、また正確な日本語です。
僕は小説を書くとき、いつも何も考えずに、思いつくまま最後まですらすらと書いてしまって、あとから書き直してにはとても長く時間をかけます。登場人物を一度設定してしまうと、彼らはどんどん勝手に動いていきますから、その動きに遅れないようについていくことが、何より大事なことになります。そういうプロセスはいつも同じです。
僕の読者に書き手志望の人が多いのは、たぶん「これくらいなら自分にも書けるんじゃないか」と感じられるからじゃないでしょうか。でも、それは良いことだと思いますよ。僕だって60年代にリチャード・ブローティガンやカート・ヴォガットの小説を読んだときには、「僕もこういうものが書きたいな」と思いましたから。そういう作品も世の中には必要なんです。
你好。你写了相当优秀的日文。虽然说这种话有点不合适,不过比起这里收到的邮件(日本人写的)的一半都更容易阅读,而且是正确的日文。
我写小说的时候,总是什么都不想,把想到的东西酣畅淋漓地写出来,然后用相当长的时间重写。登场人物一旦设定好后,他们就会慢慢地,随性地动起来,为了不延迟那个变动而紧紧地跟随,比什么都重要。这种过程一直都是一样的。
我的读者有很多人志愿成为写手,也许是认为「如果是这种程度我也能写」吧。不过,我觉得这是好事。我在60年代读Richard Brautigan和KURT VONNEGUT的小说时,也曾想过「我也想写这种小说啊」。世间也需要这种作品。