村上春树-《村上さんのところ》

翻译|「《村上さんのところ》- 村上先生认为的「阅读村上先生的方式」」

2016年10月27日

村上さんの考える「村上さんの読み方」

村上先生认为的「阅读村上先生的方式」

質問:

はじめまして。村上さんの本は大好きでほとほと全部読ませて頂いています。たまに本や雑誌の記事などで「村上春樹の読み方」みたいなものを見かけることがありますが、僕の推測では、恐らくそれは村上さんの小説が「村上春樹はこの小説を通して何を伝えようとしてるのか?」という視点で読むと物凄く難しいものだからだと思います(といっても僕はこういった本や記事を読んだことがないので、あくまで勝手な推測です)。僕自身、村上さんの本を村上さんは何を読者に伝えたいのかとか、この本に隠された本当の意味は何なのかなんて視点で読むと、読書力も観察力もなく知識も浅いものでさっぱりわかりません。

初次见面。实在太喜欢村上先生的书,全部都阅读过。虽然偶尔在书籍或杂志的文章等会看到类似于「阅读村上春树的方式」这样的内容,根据我的推测, 我想那个恐怕是以村上先生的小说「村上春树要通过这本小说表达什么?」这样的观点阅读,所以非常地有难度(说起来因为我并没有阅读过这样的书或文章,终归只是随意的推测而已。)我自己,对于村上先生的书,村上先生打算向读者传达什么,或者带着这本书里面隐藏的真正的意味是什么这样的观点去阅读,由于缺乏读书能力和观察力以及知识也非常浅薄,所以完全不知道。

ではなぜ村上さんの本が大好きなのかというと、村上さんの本は読んでいてとても楽しいからなんです。たいていの本は一回しか読みませんが、村上さんの本は何回読んでも物語が頭の中に映像になって出してきて、それが物凄くリアルで、半分その世界の一部になり、半分その映像を最前列でみているお客さんのようになりながら、ストーリーを追いかけているのがこの上なく楽しいのです。正直言うと、僕は村上さんが何を伝えたいのかとか、その小説の意味などというものをあまり考えていません。個人的にはこれからもこのスタイルで楽しく村上さんの作品を読んでいきたいと思っているのですが、村上さんはこのような読者をどう思いますか?

谈到为什么非常喜欢村上先生的书,应该就是读村上先生的书时非常地高兴。大部分的书只会读一遍,但是村上先生的书读了很多遍,以至于故事已经变成影像在头脑中出现,因为过于栩栩如生,自己一半变成那个世界的一部分,同时一半像是变成在最前排看影像的观众,没有比追看故事更快乐的事情。直率地说,我对于村上先生想表达什么内容,这本小说的意思是什么之类的完全没有考虑过。个人的话,只是想着继续以这种方式快乐地阅读村上先生的作品,不知道村上先生对这种读者是怎么想的呢?

もし「いや違う、こうして読んでほしいんだ!」なんていうのがあったら、おしえてください。

如果有「啊,不对,希望你能这样读呢!」这样的想法,还请告知。

回答:

いつも言っていることなんですが、小説には意味なんてそんなにありません。というか、意味という座標軸でとらえることができないからこそ、小説が有効に機能するのです。意味という座標軸でとらえしまうと、小説は味気ないつまらないものになってしまいます。「意味はようわからんけど、なんかおもおいし、読んだあと腹にたまるんや」(なぜか関西弁になる)というのが僕の考える小説の理想のかたちです。大事なことは固定の中にではなく、推移の中にあります。それが考える「村上春樹の読み方」です。

这也是一直在说的,对小说来说,意义什么的是不存在的。换句话说,正因为捉不住意义这样的坐标轴,小说才能有效地发挥作用。要是捕捉到意义这样的坐标轴,小说就会变成无聊的东西。「虽然不知道意义,但是非常地有趣,读完之后捧腹大笑」(怎么变成关西腔了)这是我思考的小说理想的样子。重要的东西并不是固定在中间的,而是存在于阅读的推进里面。这是我认为的「阅读村上春树的方式」。