『村上さんのところ』ー 村上春樹
作品を富士山にたとえれば
用富士山来比喻作品的话
質問:
こんにちは。私は小学生の頃から読書はしていましたが、ここ数年は特に読んでおり昨年は120冊ほど(再読したものも含む)読みました。もちろん春樹さんの本もたくさん読んでいます。最近春樹さんの小説ニついての本(「世界は村上春樹をどう読むか」「ハルキ・ムラカミと言葉の音楽」)を読んでみて、自分がいかに読解できていないかがわかり、ちょっと悲しくなりました。
でも春樹さんはどこかで「読書はとても個人的な行為だからどう読むのも自由」とおっしゃっていたと思います。いまでもこのお考えは変わりませんか?
まあ基本的に解説書の類いは読みませんし、たとえ読解できていないとしても読み続けさせていただくのですが。。。
您好。我从小学生开始读书,这几年尤其去年读的书有120册(包括重读的书)。当然春树先生的书也读了很多。最近试着读了关于春树先生的小说的书(「世界怎么阅读村上春树」「村上春树与语言的音乐」),意识到自己多么地缺乏阅读理解的能力,有点伤心。
但是春树先生在某个地方曾说过「因为读书是非常个人的行为所以怎么读也是自由」。至今这种想法有改变过吗?
基本上不读解说书之类的东西,即便缺乏阅读理解的能力也能让我继续读下去吗…
回答:
どのような解説書も説明本も、それがどれほど優れたものであったとしても、あくまでテキストの一部を切り取ったものに過ぎません。小説というのはゲームではありませんので、「完全攻略本」みたいなものはどこにも存在しません。作品を富士山にたとえれば、一つの角度からそれを捉えた写真のようなものです。そこから全体像は浮かび上がってはきません。でも作品を読んだあなたは、実際に富士山に登って、下りてきた人です。あなたは既に全体を体験しているのです。今さら攻略本が必要ですか?
无论是怎样的解说书还是说明书,无论它是多么优秀的作品,也不过是截取了文本的一部分而已。小说不是游戏,哪里都不存在「完全攻略本」之类的东西。用富士山来比喻作品的话,就是从一个角度捕捉而成的照片。在那里全体像是无法浮现出来的。但是阅读作品的你,是实际上登山了富士山,并且下山的人。你已经体验了全部。既如此还需要攻略本吗?