安直な「対談本」が多すぎませんか
马虎了事的「对谈本」是不是太多了
質問:
ここ数年、日本では「有名人同士の対談本」が大量に出版されています。ベストセラーを出した有名学者と評論家や弁護士、作家等の対談、といったものですね。対談者のどちらかに興味がある場合、購入して読みたいのですが、余りにも出版点数が多く、時間と小遣いが足りずに締めることが多くなりました。
また、内容的に学者さんが専門外の話をせざるを得ない企画があり、内容が薄い書籍も散見されるのが、その学者のファンとしては残念な気がします。日米の出版事情にお詳しいであろう村上さんに伺いたいのですが、アメリカでもこの手の対談本は盛んに出版されているのでしょか。
这几年,日本出版了大量的「有名志趣相投者の対談本」。写出畅销书的有名学者与评论家或者律师,作家等的对谈,之类的东西吧。我对哪位对谈者感兴趣的情况,就想买来读,但是出版的数量实在太多,经常因为时间和零用钱不足而放弃。
还有,在内容上也有学者不得不做专门以外的对谈的企划。内容浅薄的书籍处处可见,对作为该学者的粉丝感到可惜。想对日本与美国的出版事情有详细了解的村上先生提问,美国也会积极出版这种程度的对谈本吗?
回答:
そうですね。僕も常常あなたと同じようなことを考えてきました。こんなことを言うと角が立ちそうだけど、日本で出ている対談本って、内容が薄いものがわりに多いです。出版社が対談集をたくさん出すのは、多くの場合(もちろんみんながみんなそうではありませんが)お手軽に本が作れるからです。有名人を二人揃えて、適当に喋らせて、それで一冊本をこしらえてしまう。そういう例が少なくありません。
僕は作家になったばかりの頃、いくつか対談をやりました。村上龍さんとやったし、中上健次さんともやったし、五木寛之さんともやりました。そのたびに相手の作家が書いた小説をしっかり読破して対談に臨みました。そうしないと失礼ですから。でもそんなことをしていると、何しろ時間がかかってしょうがないんです。五木さんなんてものすごい数の本を出していますから。とても読み切れません。だからあるときから対談はしないと決めてしまいました。中途半端なことはしたくないから。
河合隼雄さんと小澤征爾さんとは一緒に本を出していますが、それは僕がその人たちにインタビューするというかたちをとっています。普通の対談本とは色合いが違います。僕が聞き手として、お二人の話をうかがっているわけですから。インタビューするのって、僕は好きです。
アメリカでは対談本って、まず出ません。対談という形式もほんとんど見かけません。とうしてかなと思うんかけど、きっと二人の人間が真剣に対話をやりだすと、そんな簡単には結論が出ないからじゃないでしょうか。日本の対談って、あるところまで来ると、「じゃあ、まあこういうことで」みたいに話しが適当にまとめられ、切り上げられてしまうことが多いです。あるいは結論も出ないまま、それぞれに「言いっ放し」みたいにして本が終わります。そういう生ぬるさというか、なあなあっぽい感じが、僕として少し首を傾げたくなるのです。
もちろんすごく面白い対談本もあると思うんだけど、いかんせんお手軽なものが多すぎるように僕は感じます。異論はあるかもしれませんが。
是啊。我也经常与你思考同样的事情。虽然说这种话显得不圆滑,不过在日本出版的对谈本,内容浅薄的意外地多。出版社出版大量的对谈集,很多情况是(当然不是所有都是这样)因为能简便地制作书籍。把两个有名的人凑在一起,适当地说话,然后就能做成一本书。这种例子太多了。
我在刚成为作家的时候,也做了好几个对谈。与村上龙先生对谈了,与中上健次先生也对谈了,与五木宽之先生也对谈了。每次都会认真地读完对方作为作家写的书之后才去对谈。因为不这样做就显得失礼。但是做这种事的话,总是需要花时间那也没有办法。因为五木先生出版了非常多的书。根本读不完。所以那时候就决定不对谈了。因为不想让它半途而废。
虽然我与河合隼雄先生和小泽征尔先生一起出版书籍,那是以我访问他们的形式进行的。与普通的对谈本在倾向上是不一样的。我作为听者,向两人提问。我喜欢访谈。
在美国对谈本什么的,首先不会出版。对谈这种形式也几乎找不到。虽然会想这是为什么,不过肯定是因为两个人尽管认真地谈话,也不能简单地得出结论。日本的对谈,去到某种程度,就以「那么,就是这么一回事啦」类似的话适当地总结,然后结束会话的情况挺多的。或者说连结论也没有,然后各自以类似「任意说话」那样结束那本书。这种不清不楚的,敷衍了事的感觉,让我挺纳闷的。
当然也有非常有趣的对谈本,无奈我觉得马虎了事的太多了。也许会有异议吧。