语言的恐怖。
语言本是一件中性的事物,却可以因应说话者的态度,情绪,意图而有巨大的区别。有时候我会想,要说语言的恐怖,倒不如说使用该语言的人的恐怖。如果仅仅怪罪于语言的内容,语言未免太无辜了。当然语言的内容有好有坏,有积极的消极的,但作为人,本就是语言交流中的主导者,为何偏偏要选择语言的负面。
有些人仅仅只是借助于语言的便利性,而用语言来代替发泄内心的不满和愤怒,以为仅仅只是语言伤人,其实被伤害的人心里最清楚,是人本身伤害了另一个人。
语言会因为人而被美化或丑化,而人当然也会因为语言而被肯定或否定。
语言的恐怖或者是暴力性的呈现,更深一层看,也是人的恐怖或暴力型的呈现。
言葉の怖さについて
「语言的恐怖」
質問:
私は最近「人間」がとても苦手になりました。仲良く話してくれている友達も実は裏でいろいろ良くないことを話しているという噂を耳にしたり、Twitterであらゆる人を批判する友達の姿を見かけたり。
誰しもが表と裏の顔を持っていて、コントロールしながら生きているのでしょう。けれど、その結果、皆誰かを傷つけたり、自分自身が苦しんだり。なんのために人って生きてるのかなあ、と考えるようになり、自分が「人間」であることがすごくイヤになり、そして周りにいる「人間」と接することもイヤになりました。
子供の頃は夢を持つことが大事だと言われて、自分らしさを尊重して、夢に向かって努力することが大事だと思っていたのに、大人になったとたんい夢よりも安定した生活を送ること、周りに迷惑をかけないように、あまり目立ちすぎないことが大事だと言われるようになり、ますます人間って何なのわからなくなりました。
どうしたら人間が好きになれますか?人間の良さとは一体なんですか?
我最近非常怕「人」。关系友好说好话的朋友实际上背地里会说各种各样的坏话,听到这样的谣言,还有在Twitter上看到所有的人都在批评朋友。
谁都是秉持着表面和内里的样子,一边控制着一边生活。可是,结果是,所有人都会伤害某人,也会让自己痛苦。人是为了什么活着呢,就会思考这个问题,对自己是「人」感到非常地厌恶,而且对于与周围存在的「人」的接触也变得厌恶。
明明说怀有小时候的梦想是重要的,尊重自己的样子,向着梦想努力是重要的,可成为大人后又被说比起梦想过上安定的生活,不要烦扰到周围,不要太过于引人注目是重要的,我越发对人不了解。
要怎么样才能喜欢上人呢?人的好究竟是什么东西?
回答:
僕はこうして文章を書いて35年も生活していますが、身にしみて学んだのは「言葉って本当に怖い」ということです。ペンは剣よりも強いよく言いますが、言葉は実際にナイフのように人を切り裂きます。だから僕は慎重に慎重を重ねて文章を書いています。こういうやりとりも、いい加減にほいほい書いているようにみえるかもしれませんが、これでずいぶん神経をつかって書いているし、何日か寝かせて、用心に用心を重ねています。僕はなんといっても言葉のプロですから、失敗は許されません。
でも世間の多くの人は、言葉の怖さを良くわかっていないように見受けられます。そしてSNSが発達したせいで、抜き身の刃物のような言葉が言説空間をひゅんひゅん飛び交っています。これは僕なんかからみると(つまりプロの視点からみると、ということですが)、ほんとうにどんでもないことです。あなたが傷ついたり、いやになったりする気持ちはよくわかります。そう感じるのがむしろ当然です。インターネットは便利なシールですが、僕らはあんだかとんでもないものを解き放ってしまったような気がすることもあります。
しかしいずれにせよもう後戻りはできないので、そのような状況にあわせて自分を護っていくしかありません。そういうシールとのあいだに、自分なりの「適正距離」を測っておくことが大事になります。うまく測ってください。
我这样写文章生活了35年,深切地学习到的是「语言是相当恐怖的」。
虽然经常说笔比剑还要强,可语言实际上就像刀子一样把人割裂开。所以我是反复慎重又慎重地写文章。这种会话,可能看起来像是适可而止那样写,可我在这里是相当小心翼翼地写的,让它睡几天,反复用心又用心地。因为我怎么说也是语言的专家,所以不允许失败。
但是世间的很多人,看起来就像是不那么了解语言的恐怖。因为SNS的发达,像出鞘的刀子一样的语言在说话空间里嗖嗖地交错乱飞。这个在我看来(也就是从专家的角度来看,这样),真的是非常恐怖的。你受伤了,或是变得厌恶的心情也非常能理解。这种感受不如说是理所当然的。网络是便利的封印,我们也会有想要发泄难以明了的东西的心情。
但是无论怎么说因为已经无法往回走,只能身处这种状况的同时保护自己。在这样的封印的间隙里,丈量属于自己的「适当距离」就变得重要了。请认真地丈量。