村上春树-《村上さんのところ》

翻译|「 《村上さんのところ》- 小说的资本论」

2017年1月11日

小説における資本論
小说的资本论

質問:

街を歩いていて、よく思うのです。これはどうのくらいの資本が投下されていて、どれくらいで回収されるか計算されたものだなと。もちろん世の中は広くて、そういうものではない本物もなかにありますが、世の中の大抵はそういうふうにできているように僕は思えます。
誰もがそういう中のひどいにはなりたくないけれど、仕方なくそうしているのかななんて、僕は思っています。
小説だってそうです。大抵の小説には投下された資本があり、その回収があります。でも、本来、小説はそういうものではなかったはずですよね?
世の中で時を超えて残るものは、いったいどれくらいあるのでしょう?
これから未来、資本の投下と回収の呪縛から抜け出た未来はあるのでしょうか?
古いお寺なんかおみるたびに、そういうことを考えてしまいますが、春樹さんはどう思われますか?
自分の小説が、一体どれくらい残ると思いますか?

走路的时候,经常会想。计算这个投入了多少资本,又回收了多少资本。当然世界是很大的,在其中有着这些真东西,我想世间的大部分事情都是这样发生的。
虽然谁都不想在其中变得无情,但是也没有办法,我是这样想的。
小说也是这样。大部分的小说有投入的资本,也有回报。不过,本来,小说不应该是这样的吧?
世间里能超越时间而剩下来的东西,究竟有多少呢?
现在开始往后,从资本的投入与回收的咒语中摆脱出来的未来存在吗?
每次看着古老的寺庙的时候,总是会想这样的事情,春树先生是怎么想的呢?
自己的小说,究竟有多少会剩下呢?

回答:

そうですか。なかなか面白い考え方をなさるんですね。僕は自分が小説を書くことをあまり「資本投下」という風に考えたことがありません。でもたしかにそういわれてみれば、僕はそう小説を書くことに有形無形の資本を投下しているわけで(時間をかけ、手間をかけ、記憶を漁り、想像力を駆使している。電気代も払っているし、人件費もかかる)、その本から収入があれば、僕は結果的にその投下資本を回収しているということになります。しかしそれはあくまで「考え方よっては」ということであって、それは小説を書くという行為の一側面にすげません。僕は基本的に「書かざるを得ない」と感じるから書くのであって、「こうすれば储かるから書こうぜ」と思って書いているわけではありません。ですからそれは普通の何かを作るーーたとえセメントや家具を作るーーような意味での経済行為とは少し違うと思うんです。

だいたい小説なんて、とくになくてもいいものです。生活必需品と同じように考えると、少し無理があるのではないでしょうか。

自分の小説いつまで残るか?いうまでもなく、そんなこと僕にはわかるわけがりません。誰かかわりに見届けておいてください。

这样啊。相当有趣的思考方式呢。我没有把自己写小说的事情像「资本投入」那样去思考。不过确实如果这样去看的话,我写小说的事情是投入了有形无形的资本(投入时间,花费功夫,搜索记忆,驱使想象力。也需要交电费,消耗人事费),如果那本作品有收入的话,从结果上我是回收了资本的投入。但是那终归是「去想的话」才有的事,不是给写小说这种行为按上的一个侧面。我基本上是因为感到「不写不行」才写的,并不是因为想着「这样做就能赚钱所以去写吧」而写的。正因为如此那个与平常要制作什么东西——例如制作水泥或者家具——类似意思的经济行为是稍微有些不一样的。

大体上小说什么的,对我来说是不可缺少的。把它当成生活必需品一样考虑的,可能会有点无理吧。

自己的小说能存留到什么时候?不用说,这种事情我是不可能知道的。还请某人替我确认一下。