お好きな言葉


这里记录的皆是我读到的喜欢的,且让人心动的「言葉」。或是一个词,或是一个句子,或是一段话。它们都具有使我动容的唯一性,独特性。宛如初次邂逅那般久久难忘。


僕は世捨人になり了せなかった芭蕉の矛盾を愛している。同時にまたその矛盾の大きかったことも愛している。

芭蕉の俳諧を愛する人の耳の穴をあけぬのは残念である。もし「調べ」の美しさに全然無頓着だったとすれば、芭蕉の俳諧の美しさも殆んど半ばしかのみこめぬであろう。

僅僅十七字の活殺の中に「言葉の音楽」をも伝えることは大力量の人を待たなければならぬ。

しかし耳に与える効果は如何にも旅人の心らしい、悠悠とした美しさに溢れている。

   年の市線香買ひに出でばやな

年の市に線香を買いに出るのは物寂たとはいうものの、懐かしい気もちにも違いない。その上「出でばやな」とはずみかけた調子は、宛然芭蕉その人の心の小躍りを見るようである。更にまた下の句などを見れば、「調べ」を駆使するのに大自在を極めていたことには呆気にとられてしまう外はない。

芭蕉の俳諧の特色の一つは目に訴える美しさと耳に訴える美しさとの微妙に融けあった美しさである。

「芭蕉雑記」より、芥川龍之介


幸子は着いた翌日の午後、昼の食事のあとで、暫くベッドへ仰向けに臥てじっと天井を見詰めていたが、そうしていても、一方の窓からは富士の頂が、他の一方の窓からは湖水を囲繞する山々の起伏が、彼女の視野に這入って来た。彼女は何と云うこともなく、まだ行ったこともない瑞西あたりの湖畔の景色を空想したり、バイロン卿の「シロンの囚人」の詩を思い浮かべたりした。そして、何処か日本の国でない遠い所へ来たような気がしたが、それは眼に訴える山の形や水の色が変っているからというよりは、むしろ触覚に訴える空気の肌ざわりのせいであった。彼女は清冽な湖水の底にでもいるように感じ、炭酸水を喫するような心持であたりの空気を胸一杯吸った。空には雲のきれぎれが絶えず流れているらしく、折々日が翳ってはぱっと照ることがあったが、そう云う時の室内の白壁の明るさは、何か頭の中まで冴え冴えと透き徹るように思えた。……その静かさの中にあって、その光線の、明るくなったり翳ったりが何回となく繰り返されるのを見ていると、彼女は「時間」と云うものがあることをも忘れた。

「細雪」より、谷崎潤一郎


「Mon oreille est un coquillage Qui aime le bruit de la mer」
——Jean Cocteau

「私の耳は貝のから 海の響きをなつかしむ」
——堀口大学 訳


つづく